2014年06月02日
インターナショナルスクールに通う生徒は、英語で学ぶことができるため、大学選びも世界的です。米国などの英語圏の大学をはじめ、ヨーロッパ、アジアの大学と世界へ進学します。近年は、日本の大学人気が集まっています。東京・京都・大阪と大都市が多いなかで、際立っているのが大分県にある立命館アジア太平洋大学(APU)です。
米国・カナダ・イギリスなどの英語圏の大学をはじめ、ヨーロッパ、アジアの大学と世界へ進学します。
また、近年は、日本の大学も選択肢として広がりを見せ、英語で学べる国際教養学部やコースがある大学に人気が集まっています。
東京・京都・大阪と大都市が多いなかで、際立っているのが大分県にある立命館アジア太平洋大学(APU)です。
インターナショナルスクールの組織として代表的なのものとして日本インターナショナルスクール協会(Japan Council of International Schools)があります。
現在の加盟校は28校(分校を含む)で、そのうち高等部(G12)があり、卒業生を輩出しているインターは、2014年現在20校です。
インターナショナルスクール協会加盟校の約40%の学校からAPUに志願、進学をしています。
APUは、東京・大阪という大都市ではなく、大分県にあることからもユニークです。
タイムズの調査で判明したAPUに進学および入学を許可された生徒のいるインターナショナルスクールは、下記の通りです。
【東京】アメリカンスクール・イン・ジャパン,セント・メリーズインターナショナルスクール,カナディアン・インターナショナルスクール,K.インターナショナルスクール,【横浜】横浜インターナショナルスクール【神戸】マリストブラザーズインターナショナルスクール【広島】広島インターナショナルスクール【福岡】福岡インターナショナルスクール
なお、大学進学実績を把握できなかったインターナショナルスクールは、【東京】クリスチャンアカデミー・イン・ジャパン,ブリティッシュスクール・イン・東京です。
生徒の進学先だけではなく、教職員から高い評価を受けているAPU。
そこで、APU生みの親であり、初代学長の坂本和一先生(現:立命館大学名誉教授)にお伺いしました。
―――村田:インター生は、世界から進学先を選びます。インター生がどのような進学先を選ぶのか、調べていくと全国のインターからAPUに進学しています。
大都市ではなく、大分県にあるAPUをなぜインター生は選ぶのだろうか?と素朴な疑問が浮かびました。
坂本先生:インターナショナルスクールの関係者の皆さんが生徒さんの進学にAPUを推してくださることはたいへんうれしく、光栄です。
APUは、世界全域で学生を募集し、教職員も世界25の国・地域から採用しています。
学生の内訳は、留学生50:日本人50の比率で構想され、実際にいまもそれに近い比率で学生が在籍しています。このような学生の在籍比率が、日本の大学になかった多文化と多言語のキャンパスを生みだしました。
そのようなキャンパス環境こそがインターナショナルスクールで学んだ生徒さんに支持されているのかもしれません。
―――村田:そうですね。インターで育った生徒にとって「APU」には共感できるものがあるのだと思います。
坂本:多文化キャンパスが一つの要因だとしたら、さらにインター生が育ってきた背景にも要因があると思います。
本学には、アジア太平洋学部(APS)と国際経営学部(APM)があります。
アジア太平洋地域の多様な文化、社会構造などは、国外で育った多くのインター生の方が実際に体験してきたものでしょうし、そこで得た経験や視点が活かせます。
例えば、シンガポールで生まれ、インドネシアで育ち、途中から日本に来たインター生にとっては、育った環境がアジア太平洋そのものです。
そのような生徒にとって、アジア太平洋地域の多様な文化、社会構造は外部ではなく、まさに内部であり、すでに自分のなかにあるものです。
そのような生徒には、アジア太平洋の経済制度、環境問題や国際問題について、もっと深く、しかもアジア太平洋出身の先生から学びたいと思うのは、自然かもしれません。
―――村田:学ぶきっかけとして自然ですね。インターでは、英語で学びますが、日本語教育も盛んです。APUでは、どのように学生が日本語を学んでいるのですか?
坂本:APUでは、日本の大学で初めての日・英二言語教育を実施しています。
これは、統一したカリキュラムを日本語、英語の2トラックで実施するものです。これはAPUの大きな特徴です。APUは入学に日本語の能力を前提としていませんので、日本語の能力なしで入学してくる学生が国際学生の80%に及びます。
中国や韓国からも、日本語能力なしで入学してくる学生がたくさんいます。彼らは入学すると、英語トラックの授業を履修します。
一方、国際学生(留学生)はその半数が日本企業に就職を希望して入学してきます。
しかし、日本の企業は日本語能力のない学生を歓迎しません。
ですからAPUの国際学生は日本企業に就職を果たすために、入学した直後から英語で専門の授業を受けるのと並行して、猛烈に日本語を勉強します。
―――村田:国際学生の日本語への取り組み方が違いますね。そのため大学としてどのような日本語教育をおこなっているのですか?
坂本:大学はそのための強力な教育条件、教育体制を整備しています。
前半の2年で大抵の国際学生は、日本企業が十分評価する日本語能力を身に着けます。
英語だけで学ぶ大学を探しているのであれば、米国や英国の大学を選びます。
APUに入学してくる国際学生は、英語で学べるとともに、日本語も修得できる環境を求めて入学してきます。
とくに国際経営学部に入学してくる国際学生は、日本企業の良さを学び、日本語を習得し、日本企業に就職したいという学生が多くいます。
彼らにとって、日本語も使えるということは必須の条件です。
ですから、日本語の習得をとくに重視しています。
坂本:APUでは、英語圏以外の生徒も多いため、母国語・英語・日本語とトライリンガルな学生がたくさん育っています。
また、大学としてもさまざまな仕組みを作っています。
1年目は、世界中からやってきた国際学生は学生寮のAPハウスで日本人学生(国内学生)とともに生活します。
2年目になると、キャンパス外の寮やアパートなどで暮らします。
アルバイトやさまざまなイベントを通し、大分・別府の地域や社会と連携し、より実践的な日本語能力を高め、日本文化理解を深めます。
卒業後は、日本企業をはじめ世界へ飛び立っていきますが、何よりもうれしいのが卒業生にとって「別府」が第二の故郷になっていることです。卒業生の間では代々、「別府に帰ろう」という言葉が合言葉になっています。卒業後も余暇があると、世界中、国内の各地から別府とAPUに戻ってきてくれます。
タイムズでは、インターナショナルスクールだけではなく国際バカロレア認定校も取材しています。
なかでも立命館学園は、APU、立命館宇治中学校・高等学校(宇治高)など国際教育への総合的な取り組み、展開のスピードが際立っています。
-----村田:どのようにして立命館学園の全体の取り組みがうまれているのでしょうか?
坂本:1980年代末、『二一世紀の立命館学園構想』という学園の長期ビジョンをまとめました。
ちょうど私自身が教学部長を務めていたころです。
ここでは、大学としてはかなり早い時代認識だったとおもいますが、「これからはアジア太平洋時代の時代が来る。大学もアジア太平洋地域からの留学生の飛躍的な増大などによる、アジア太平洋地域をにらんだ大学の国際化が必要である」という趣旨のことが強調されています。このような早い時期の立命館学園全体のビジョンが、今につながる原点になっていると思います。
立命館宇治高の国際化も、2000年開校のAPU開校と連動しています。
-----村田:なるほど。坂本先生は副総長として実際にAPUの計画に携わっていらっしゃいました。
APU開学を含め、その経緯を教えてください。
坂本:APUの構想が持ち上がったのは、1994年の春です。
当時、大きなプロジェクトであった「びわこ・くさつキャンパス」(BKC)の開設と理工学部拡充移転が約5年の準備期間を経て実現した直後でした。そのころ、ひとつの議論と、ひとつの出会いからAPUは歩みはじめました。
ひとつの議論とは、1994年春からの「新二一世紀学園構想委員会」の議論です。
ひとつの出会とは、ちょうど同じころに大分県の平松守彦知事(当時)から受けた新大学設置の誘いです。立命館学園では、「新二一世紀学園構想委員会」で「地球市民」社会の実現とアジア太平洋地域における学術・文化の創造拠点をめざして「新しい大学」の創造を含めた改革の検討が必要という答申を理事会に提出しました。
坂本:当時、BKC開設と理工学部移転が計画通り実現し、ひと段落ついたところでしたが、学園創立百周年と21世紀をめざして立命館学園全体の新展開を集中的に議論する機運が高まっていました。
1990年代に入り、新しい大学の国際化として、アジアの急成長を踏まえ「アジア太平洋時代」の到来に対応した教育・研究を進める必要があるのではないか、と考えていました。
立命館ではすでに国際関係学部が開設されており、国際化に対応する取り組みを進めてきていましたが、さらにアジア太平洋志向の新しい教育・研究に結びついた改革を進めるところに来ているとの提起がなされました。
-----村田:「アジア太平洋志向の新しい教育」ですね。
坂本:21世紀にむけて「新しい教育を本気でやる」には、まったく新しい取り組みが必要だったのです。
それは、決して新しい学部を開設するというレベルの取り組みではなく「新しい大学」を創設する位でなくては「新しい」とはならないと考えました。
すでに、国際関係学部、政策科学部も新設し、キャンパスの大移転も(BKC新展開)で行っていました。
そのような実績の上に、「新しい教育・研究」がAPU創設へつながっていきました。
-----村田:「アジア太平洋時代」、新しい時代の「新しい教育・研究」と、国際化へ向けた議論がなされ、ここからひとつの出会いがAPU開学へ向かっていくのですね。
坂本:1994年4月に滋賀県の支援や地域の理解など多方面の協力があり、衣笠にあった理工学部をびわこ・草津キャンパス(BKC)に移設しました。
当時立命館の新キャンパスBKCは滋賀県との大型の公私協力でもあり、社会的にかなりかなり大きな話題になっていました。
そのなかで大分県の平松守彦知事(当時)が「二一世紀大分県高等教育強化ビジョン」という文書を携えて、大学誘致のために立命館に来訪されました。
平松知事は、村ごとの特産品を作ろうという「一村一品運動」やアジアとの自治体外交を積極的に展開されていました。
-----村田:当時、地域振興のための大学誘致は多かったと思います。立命館にも多くの誘致話があったと思いますが、平松知事の誘致には立命館を動かす何かがあったのですね。
坂本:そうですね。
もっとも大きく動かしたのが平松知事の「志」の高さですね。平松知事は招致に際して「一村一品運動」の国際化やアジアとの自治体外交を含め、大分県とアジア太平洋地域との関係を支えるような国際的な大学が必要だと力説されました。
「アジア太平洋時代」、新しい時代の「新しい教育」について議論を重ねていた私たちにとって「アジア太平洋時代」に対応した教育の必要性を説く平松知事の高い志は、まさに「時代的使命感」を感じさせるものでした。
この平松知事との出会いが、APU開設のための決定的な契機となりました。
そこに大分県との協力があり、さらに改革が進展していきます。
APUの魅力のひとつに世界からの留学生と国内学生が50:50で学ぶ学生構成があります。
インター生が学ぶ多国籍な生徒構成とつながる、大変重要なポイントです。
-----村田:どのようにして国内外学生構成50:50という考えが出てきたのでしょうか?
坂本:50:50のコンセプトが生み出さる原点は、やはり平松知事との話し合いのなかでした。
立命館は、新しいタイプの学部(国際関係学部、政策科学部)をつくり、BKC開設と理工学部の拡充・移転を進めてきました。
そのため、つぎに何か改革をやるなら、これまでに日本の大学がやったことのないようなものでないと意味がないと考えていました。
会談の席上、そのようなことを申し上げると平松知事が「では、どのような大学ならば、日本初のユニークな大学と考えるのですか?」と尋ねられました。
そこで、「いま(1990年代半ばのことです)留学生が多い大学でも、学生比率で10%です。学生の半数50%を留学生にする大学を考えたら、これは確実に日本初の大学になりますね」という話が立命館側から出てきました。
この会話がきっかけです。
-----村田:APUの多文化キャンパスを生みだしたアイデア。それは、ブレインストーミングのような会話からだったのですね。21世紀の国際教育について立命館と大分県の構想がぶつかり合い、新たなアイデアが生まれた瞬間ですね。
坂本:国際学生(APUでは留学生のことを国際学生といっています)の比率を50%にするというアイデアは、最初はそれほど準備して出てきたものではありませんでした。
しかし、その後、事務局レベルで話し合いが進んでいくと、国際学生50%という比率は関係者がこれにほれ込み、熱を帯びはじめました。
時代背景や社会の動き―グローバルな動き―に連動し、このコンセプトを何としてもやり遂げようと、APUのコンセプトの核となるように固まっていきました。さらに学内の議論で、この新大学を財政的に自立したものとするために、2学部で、学生規模を学年800名(したがって、4年で3,200名)とすることにしました。
そうすると、国際学生は、1学年400人必要とすることになりました。
-----村田:この段階で、すでに現在のAPUに近いですね。
坂本:この概要を持って、大学設置許可のために文部科学省へ向かいました。
当時、少子化が進み、大学を新設する場合、1学部入学定員200人が上限という雰囲気がありました。
そこへ2学部入学800名で、国際学生が半分、400名を占め大学を大分県に新設したいという打診でしたから、これには文科省もかなり驚いたと思います。
-----村田:コンセプト、規模ともに受け付けた文科省の担当者は、かなり驚かれたでしょうね。
坂本:一見、突拍子もないような計画に見えますが、この計画にはBKC開設や2学部の開設など私たちの大学改革の経験がありました。
また、ある程度の規模がなければ、安定的な運営を続けていくことはできません。
財政的に自立した大学として運営していくためには、2学部で一学年の合計800名、4年で3,200名の学生が必要です。
APUでは、その半数、400名を外国から集めようとしていました。
-----村田:APUのように、そのアイデアが革新的であればあるほど、現実にしようとするとハードルは高くなります。APUは国際学生を半数以上にすることで、さらにハードルが上がりました。具体的にどのように行動されたのですか?
坂本:大学設置許可の事前相談のため、文科省へ何度も足を運びました(笑)。
APUは、国際学生を半数にすると腹を決めていました。しかし文科省からは、「ではどうやってこれだけの留学生を集めるのか?方法、根拠を出しなさい」といわれました。
-----村田:ここで、方法や根拠を出しなさいといわれても、APUのコンセプトも、外国からの留学生募集も、スケール、規模において前例がありません。毎年400名の国際学生を集めるために、どうされたのですか?
坂本:400名というのは、大きな目標です。
これを一気に解決しようとするのではなく、「目標が大きかったら、分割すればよい」のです。
大きな目標を分割して、小さくしてから、シンプルに考える。
-----タイムズ:分割して考えるのですか? 400名を。
坂本:そうです。目標を分割するのがコツです。
要するに、世界の400校から毎年1人ずつ来てもらえれば400名になります。大きな目標は、一度に解決するのではなく、分割してシンプルに考える。
「目標が大きかったら、分割せよ」です。
400校の問題もそうですが、例えば一度に400校ではなく、例えば、20校×20カ所と考えれば良いのです。
開学まで数年かけて、各国・地域の学校と進学協定を結べば良いのです。
そこから、一校ずつAPUに生徒が進学してくれる学校や機関を手分けして訪問していきました。
あとでまとめてみますと、開設準備の3年間に世界中で訪問した学校や機関、約280の学校・機関から、毎年800名を超える学生の推薦協定をいただきました。
いまはだいぶん志願の形が変わってきていますが、このとき頂いた推薦協定はいまも宝ですね。
現在、BKC事務局長をされている本村廣司さん
当時を振り返り次のように話してくれました。
本村:APU開学に向けて、国際学生確保の一環として世界中の高校と協定を結ぶため、課長級以上は教員と国別にチームを作り、夏休み期間中、世界各地へ向かいました。
私は、インドに行きましたが高校・大学、場合によっては小学校までまわりました。
今でも覚えているのですが、ホテルで朝起きて地元の新聞に目を通した時です。
新聞にヨーロッパやオーストラリアの大学が学生募集の広告を出していました。
それを見て「まさに今、自分たちは大学の国際間競争の只中にいるんだ!」と実感しました。
教職員が大挙して世界中へ推薦協定を結ぶために赴くこと。
それは「立命館全体に国際化とAPU創設の『スイッチが入った瞬間』だったと思います。
-----村田:APUに結びついていくプロセスには、「新しい国際教育」を生み出すための要素が集約されています。
また、立命館学園と大分県の「志」が有機的に結びついています。
APUの多文化キャンパスがインター生に支持される理由が、ここにあるのだと思います。
-----村田:一期生の就職率は、当時、就職氷河期にもかかわらずほぼ100%でした。高い就職率は話題を呼びましたが、卒業生がいないAPU一期生を支援したのは、日本の企業でした。
坂本:就職を含め、開学前からさまざまなかたちで経済界から支援をいただいています。
経済界からの支援、協力は卒業後の就職支援を含め、経済的支援、教育研究活動への支援の3つに分けられます。
経済的支援としは、世界から学びにくる学生の奨学金に42億円の寄付が集まりました。
また、教育研究活動の支援として、授業への講師派遣、インターンシップの受け入れなどが挙げられます。
-----村田:なぜAPUがこのように経済界に支援されたのでしょうか?
坂本:いくつかの理由があると思いますが、人材へのニーズとネットワークという点が大きいと思います。
APUは、日本語・英語の二言語で学びます。
アジアの発展を取り込もうとする企業にとって、アジア出身で日本文化も理解している人材は、貴重です。
言語だけでも、母国語・英語・日本語とトライリンガルな学生も多く、日本企業にとってアジアとの橋渡し役として期待されていています。
これが人材のニーズです。
もうひとつは、開設前からのネットワークです。
先ほどの3つの支援は、1996年に世界各国・地域の元首、大使や、日本を代表する経済界の方々などによって構成されアドバイザリー・コミュニティーの創立があったから実現したのです。
アドバイザリー・コミュニティーの立ち上げには、当時経団連名誉会長だった平岩外四さんが先頭に立って尽力いただきました。
-----村田:1990年代は『失われた10年』と呼ばれた時代です。当時、企業も先が見えず、苦闘していた時代です。資金的な協力となると賛同者のどこかに心揺さぶるほどのものがなければ、協力しなかったのではないかとも思います。
坂本:90年代は、企業も資金的な支援には大きな決断が必要だったと思います。
そのなかで、多くの企業から賛同していただいた理由があるとしたら、それは「志」だったのではないでしょうか。アジア太平洋地域は、未開発の資源や増加する人口、多様な文化を抱え、21世紀の世界経済の活力の源となることは明らかでした。
そのなかで、APU開学は、世界のため、日本のため、企業のためになるものだ、という確信を持っていました。
その「志」が、アドバイザリー・コミュニティーの立ち上げになり、学術的な面ではアカデミック・コミュニティーの形成につながっていったと思います。
-----村田:今まさにその「志」がAPUとなって結実しています。
就職支援を含めた企業と連携がありますが、実は、在学中の学生の評価も大変高いものがあります。
以前、公文教育研究会の方が、APUの学生がいたからこそ、公文が主催しているサマーキャンプがより深いプログラムになったと語っていました。
坂本:公文さんのイングリッシュ・イマージョン・キャンプ(EIC)ですね。
このEICには、APUの学生がキャンプリーダーとして参加しています。公文さんとAPUがEICでの協力をお約束したあと、公文さんの実施責任者が本学を訪れ、具体的に「英語によるキャンプを開催したいので、学生さんにリーダーになってほしい」という話が始まりました。
キャンプ中、英語でコミュニケーションを取り、子供たちと寝食を共にしていくわけですが、ひとつだけ心配しているポイントがありました。
APUには世界中から学生が集まっているのですが、APUの学生が話す英語は、英語圏の英語、ネィテイブ・イングリッシュとは限らないことです。
学生もアジアを中心に来ているため、むしろ、第二・第三言語としての英語です。
しかし、公文さんはAPUの多様性を真に理解していました。すなわち「世界とつながるための英語であって、多国籍な学生が話す英語にこそ世界をつなげるコミュニケーションとしての機能が宿っている」ということです。
世界とコミュニケートするために、みんなが英米流のネイティブ英語を話す必要はない。
むしろ世界中で話されている英語の多くは、ネイティブ英語ばかりではなく、多様であり、「共通言語としての英語」だということです。
-----村田:共通言語としての英語を使いながら、コミュニケーションの経験を積んでいくのですね。
そのため参加者から「子どもが積極的になった」「変わった」という意見が多いのですね。
坂本:APUの学生にとってもEICに参加することは、普段と違う社会に触れる貴重な経験です。
普段は、別府のキャンパスで学生生活をおくっている学生が―例えばインドネシア出身の学生が―滋賀県で日本の小学生を対象としたグループのリーダーを担う。普段の学生生活とは、伝える「もの」「こと」も違えば、求められる役割も違う。
これはAPUのキャンパスでは経験できないものです。キャンプリーダーの学生は大変でしょうが、そのプロセスのなかで学生も伸びています。
2001年に始まったEICは、キャンプを通し、多文化を理解していくプログラムです。
なぜ、APUの学生を選んだのでしょうか?公文教育研究会の鳥居健介さんにお伺いしました。
鳥居:EICは「地球社会に貢献できる人材に育ってもらいたい」という理念から始まったプログラムです。
地球社会に貢献できるためには、まずは「世界を知ってほしい」。そのためにはその国・文化で育った人物が語ることが重要です。
そこでさまざまな国から日本に学びに来ているAPUの学生に協力をお願いしました。
今年で14年目を迎えますがAPUの学生と接して気付くことがあります。
彼ら・彼女たちは純粋に日本の小学生に「自分の国・文化を伝えたい」という気持ちで参加してくれることです。
鳥居:ある学生は「私の大切な家族や友人たちが暮らしているネパールは、日本と違った文化・環境を持つすばらしい国です。EICを通し、子どもたちにネパールという国があり、文化を知るきっかけになれば」と思い、リーダーに申し込んでくれました。
また、ある学生は「(奨学金制度などで)自分を招いてくれた日本という国に自分は何ができるだろうか?少しでも日本という国に恩返しができれば」と話してくれました。
ある学生は「子どもたちは、自分たちの未来」であり、大きな「家族」と答えました。
「地球社会に貢献できる人材に育ってもらいたい」という理念から始まったキャンプは、今では、関わる人たちが「地球社会」にどう貢献できるだろうか?ということを考え、実行するキャンプへと広がりました。
「地球社会」に貢献できる人材を育てるためにAPUの学生が果たした役割。
その最も重要なこと。それは「未来への貢献」ではないでしょうか。
坂本:卒業生は、日本に限らず母国やアジアなど世界中で活躍しています。
なかでも日本企業がグローバル展開をする上で、活躍する姿が代表的かもしれません。また、卒業生のなかには、起業するケースも増えてきました。
APUの多文化キャンパスでは、世界から来た学生同士が人脈を作り、文化の違いから新たな視点を獲得することができます。
そのため独自の発想が生まれる土壌があります。
APUで培ったネットワークは、卒業後に咲いてきます。
APUの卒業生が起業した例として、バングラディッシュ出身のエムデ モインさんが起業したオンライン英会話PIKTがあります。
PIKTは、ただのオンライン英会話ではありません。
「知的フェアトレード」というコンセプトから生まれたオンライン英会話です。
フェアトレードというとコーヒーや手芸品などが代表的ですが、モリンさんが注目したのが「知」。
「知」をどのように共有することができるか?
そのなかで生まれたアイデアです。
オンラインの先で、英語を教えてくれる先生がいるのは、フィリピンです。
多民族・多言語のフィリピンですが、共用語は、フィリンピン語と英語。
そこでフィリピン出身のAPU卒業生とPIKTを開発。
オンライン英会話のPIKTを開発しました。
「知的フェアトレード」は、フィリピンだけにとどまりません。
モインさんの出身国バングラディッシュのベンガル語も提供を開始。
多言語をコーコストで学べ、さらに各国で雇用を生みだします。
このビジネスモデルを可能にしたのは、APUで出会った世界的ネットワークがあるため。
まさにAPUの多文化キャンパスが生みだした新たなモデルといえます。
-----村田:日本を拠点にしているPIKTは、バングラディシュ出身の卒業生が、フィリピンのAPU卒業生と連携し、日本で起業し、グローバル展開を含め動きだしています。
PIKTは、東京に本社がありますが、多くの卒業生が『別府に帰ろう』という合言葉を持っています。
多文化な卒業生が「帰る場所」として、別府は、人材面で大変可能性に満ちていると思います。
坂本:そうですね。卒業生の厚みも出てきて、世界から別府に帰ってきてくれる卒業生も増えています。
そのなかで、別府という土地でこそ生み出せるものがあると思っています。
そのためには環境を整備する必要があります。例えば、起業のための創業支援です。
人材だけではなく、資金、物を含めた支援がなければ育っていきません。
-----村田:PIKTもそうですが、ITなどのビジネスモデルには、限定した地域、国という発想がありません。
坂本:そうですね。国境を越えていくビジネスモデルですね。
言語も越えたモデルが作られるため、創業支援も、最初から「国」を越えていく、という認識が必要です。国境を越えたイメージですね。
その上で「どのように支援できるか?」と考える必要があります。
支援できる体制が、一度できると後は自然に回っていくと思います。願わくは、その拠点が別府や大分だと大変うれしいのですが(笑)。
-----村田:APUの卒業生が「別府で創業しよう」となるとインパクトがありますね。別府で新たなビジネスモデルが生まれるためには、ほかにどのような要素が必要でしょうか?
坂本:さらに挙げるとしたら、理系の学部が必要だと思います。*注
APUでは、アジア太平洋学部と国際経営学部がありますが、そこに理系の学部があるとさらに独自の研究やベンチャーが出てくると思います。理系・文系問わず3つの学部で学んでいる学生がキャンパスや学生寮で四六時中意見をぶつけ合える環境。
それが理想です。
今の多文化キャンパスに、さらに新たなファクターを入れることで、相乗効果が引き出せると思います。
* 本発言は、あくまでも個人の見解です。
-----村田:APUの多文化キャンパスに理系の学部が融合していくとまったく新しものが生み出そうです。
世界とダイレクトにつながるAPUの多文化キャンパスは、未来の人材と次のビジネスモデルを育む土壌といえます。
坂本先生、ありがとうございました!
現 職 : 立命館大学名誉教授、立命館アジア太平洋大学名誉教授
専門分野 : 産業経済論、現代企業論、アジア太平洋学
学会活動 : 産業学会、ドラッカー学会、アジア太平洋国際学会(IAAPS)
【略歴】
石川県生まれの日本の経済学者。
京都大学経済学部、同大大学院を経て、立命館大学経済学部で指導。
ハーバード大学フェアバンク東アジア研究センター、ニューヨーク大学経済学部客員研究員を経て、学校法人立命館副総長、立命館アジア太平洋大学大学長を歴任。
現在、立命館大学名誉教授、立命館アジア太平洋大学名誉教授。
立命館大学創立者中川小十郎像と立命館扁額と坂本和一先生
立命館アジア太平洋大学誕生物語―世界協学の大学づくり 中央公論新社 (2009/04)
英語版は、APUの公式ホームページで公開されています。
英語版 PDFhttp://www.apu.ac.jp/home/uploads/fckeditor/aboutAPU/publicity/APU_Story.pdf
大学の発想転換―体験的イノベーション論二五年
東信堂 (2012/10)
ドラッカーの警鐘を超えて
東信堂 (2011/11)
ドラッカー再発見―もう一つの読み方
法律文化社 (2008/06)
取材後記
坂本和一先生をはじめ、BKC事務局長をされている本村廣司さん、APUの伊藤健志さん、公文教育研究会の鳥居健介さん、記事を作成するためにご協力いただきました立命館学園の皆様に深く御礼申し上げます。
今回のインタビューで改めて、感じたのが立命館学園の国際教育への取り組みと総合力です。
APU、立命館宇治のIB教育。そこには立命館学園が国際教育に貫くものがあります。
その立役者であり、「APU」の生みの親である坂本先生にお会いさせていただき、驚いたこと。
それは、坂本先生のやわらかなお人柄でした。
APUのようなエポックメイキングな大学をゼロから生みだし、作り上げた方とは、怜悧でビジネスライクな人物だろうと想像していました。 しかし、すぐに私の想像は、崩れました。
やわらかに笑う坂本先生。まるで仙人のようでした。
インタビューのなかで何度も、火のような情熱がちらちらと見え、さらに物事に真摯に向かい合う姿が見えてきました。
取材前に立命館大学の紀要に掲載されたAPU開学までの経緯を読んで、目頭が熱くなりました。
さらに中央公論新社の「APU誕生物語」を読んで、心を揺さぶるものを感じました。
APU誕生物語は、大学の新設経緯を記した書籍ではありません。
それには、次の世界を分析し、次の日本に必要な要素を導き出し、次の世代にたすきを渡す方法が記してある実践書です。
APUが成し遂げたものは、未来の日本が必要とする人材を育てることであり、日本と世界がつながるために必要な人材を世界に供給し、その関係を持ち続けることです。
世界・日本の未来の人材。
APUには、その未来の人材がいるのです。
この記事の記者
インターナショナルスクールタイムズの編集長として、執筆しながら国際教育評論家として、NHK、日本経済新聞やフジテレビ ホンマでっかTV、東洋経済、プレジデント、日本テレビ、TOKYO FMなど各メディアにコメント及びインタビューが掲載されています。
プリスクールの元経営者であり、都内の幼小中の教育課程のあるインターナショナルスクールの共同オーナーの一人です。
国際バカロレア候補校のインターナショナルスクールの共同オーナーのため国際バカロレアの教員向けPYPの研修を修了しています。
平松守彦 前知事