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①西町インターナショナルスクール「世界に貢献できる人間を育てるために」

①西町インターナショナルスクール「世界に貢献できる人間を育てるために」

西町インターナショナルスクールは、さらに多様な生徒構成を実現させるため「アウトリーチ奨学金」を創設しました。西町インターナショナルスクールの教育理念と奨学金について理解を深める「アウトリーチ奨学金の夕べ」を見学してきました。

国際高専デザインシンキングイベント

感謝祭を前にした11月

 元麻布にある西町インターナショナルスクールに在校生、同窓生、関係者が集まり、講演者の話に耳を傾けていた。
 元麻布にある西町インターナショナルスクールに在校生、同窓生、関係者が集まり、講演者の話に耳を傾けていた。

 「西町インターナショナルスクール アウトリーチ奨学金の夕べ」だ。

 なごやかな集まりは、在校生によるピアノの演奏とともに幕を開けた。 

 日本における多文化教育のパイオニアである西町インターナショナルスクール(以下、西町)が、奨学金の充実により、さらに多様性のある生徒構成を深めていくプログラムについて取材を進めました。

 今回の記事は、元教員、同窓生の講演内容を含むため、西町に興味のある保護者、入学希望者の参考にもなると考えています。

これまでに7カ国、13人の生徒に西町の教育機会を提供することができました。

 テレンス・クリスチャン校長が、アウトリーチ奨学金のこれまでの活動について述べた。

 アウトリーチ奨学金は、西町で2003年に開始された。 

 この奨学金により、カンボジア、インド、ウクライナ、フィリピン、パキスタン、インドネシア、日本の9カ国の生徒、13人が西町で学んだ。*1

奨学生のコメント

私は、西町アウトリーチ奨学金制度がなければ経験できないような機会を得ることができました。

西町にきてからのここ数年で、自分がどれだけ変わったか自分自身で本当に驚いています。

西町のすばらしい日本語プログラムのおかげで僕は以前よりも自信を持って、日本語で会話できるようになり、日本語の全般的なスキルが著しく上達しました。

西町は、私に人生について教えてくれました。(略)西町で他の人の目を恐れずに「自分らしく」ということを自覚できるようになったのです。

アウトリーチ奨学金のコメントは、西町への感謝が綴られている。
奨学生が環境を活かし、成長していく様子が良くわかる。

*1 2003-2012年の統計
奨学生コメント引用 アウトリーチ奨学金プログラムレポート http://jp.nishimachi.ac.jp/admissions/outreachupdate.htm

日本語を全生徒の必修科目にしている西町

 そこに西町の考えがある。
 「母語以外の言語の習得は、単一の文化を超えて成長する機会」と捉えているのだ。
 成長する機会として日本語教育を含め、深化したアプローチをとる。

 港区立本村小学校、そして姉妹校の群馬県黒保根小学校・中学校との文化交流プログラムは、その一例だろう。

 そして、「単一の文化を超えて成長する機会」として、多国籍な生徒構成があげられる。  

 創立者 松方種子(敬称略)は、西町の教育についてこう語っている。

”To share, to live and learn together and yet keep a special identity...that is Nishimachi.”
 ともに分かち合い、ともに生き、ともに学びつつ、かつ個人の独自性を育てることが西町における教育の基本姿勢です。

 西町では、松方種子の考えをさまざまなかたちで取り組んでいる。

 そのひとつがアウトリーチ奨学金だ。

 社会・経済、人種、文化、地域的なさまざまなバックグランドを持つ生徒を広く受け入れ、西町の教育機会を増やし、生徒にさらに国際理解を深めてもらう意図がある。

 もちろん、アウトリーチ奨学金には、永年にわたる西町インターナショナルスクールの社会貢献への姿勢が貫かれている。

同窓生、元教員が西町の教育について講演を行った。

 この講演内容は、西町の教育文化を伝えるものであり、また、同窓生の活躍も知ることができる機会であった。
 講演内容は、多文化教育のパイオニアー西町を知る上で実に興味深く、取材をお願いさせていただいた。

 アウトリーチ奨学金の夕べは、校長先生の挨拶から始まり、在校生のピアノの演奏。
 元教員であり、現在、西町評議員をされているテンプル大学の阿南 バージニア史代氏の講演。

 同窓生であり、近代日本史の専門家でお子さんも西町で学んだルイーザ・ルービンフィーン氏、ボストンの大学で心理学を学んだ後、俳優として活躍をはじめた中島栄介氏がそれぞれの視点で西町を語った。

 また、卒業したアウトリーチ奨学生による西町での学校生活についてのスピーチもあった。

西町アウトリーチ奨学金 概要 

 西町インターナショナルスクールのアウトリーチ奨学金プログラムは、社会・経済環境、人種、文化、地域的な要素など様々なバックグラウンドを持つ生徒に学費の一部または全額を付与するプログラムだ。

 奨学金により、西町への入学が困難な生徒にも西町のユニークで質の高い国際教育を受ける機会を提供するとともに、教育の多様化を図ることを目的としている。

 奨学金の返済は不要である。
 期間は1年。
 学年度ごとの再申請、再審査により卒業までの更新も可能だ。

 審査について
 ・国籍および文化的背景
 ・家族の経済的状況とニーズ
 ・西町の入学条件を満たしていること *2
 ・申請者の学年
 ・申請者の学力および特質または特技
 ・西町の教育環境をサポートし、豊かにするその他の要素

審査過程
 奨学金委員会による書類審査、推薦に基づき学校長が奨学金対象者を選択する。

 なお、奨学生は、西町を卒業する時、または他校へ転出する際に西町での体験を評価するレポートの提出が求められる。
 より良い奨学金プログラムにするためにも、奨学生のレポートを重要視していることがわかる。

西町の歴史、特徴

 西町インターナショナルスクールは、1949年(昭和24年)に松方種子によって設立された。

 男女共学で幼稚部・初等部・中等部 約430人、25カ国以上の生徒が通うインターナショナルスクールである。

 さまざまな社会・経済環境や文化的バックグラウンドを持つ多くの生徒が学ぶ。

 現在の住所は元麻布だが昔は麻布西町とよばれていたため、西町インターナショナルスクールという名前になった。

 教育カリキュラムは、WASC認定とCIS認定を受けている。
 また、中学校から先は、それぞれ進学先を選ぶことになる。

 代表的な進学先は、アメリカンスクール・イン・ジャパンで約5割の生徒が進学する。*3
 西町の調査によるとその後、各国の大学へ進学している様子が報告されている。*4

タイムズの視点

 西町はアウトリーチ奨学金を含め、多文化的環境を維持することに細心の注意を払っている。

 それは、入学考査の目標のおいても明記されている。*2

 生徒の性別および言語のバランスを保つこと。
 学校の文化的多様性を充実させること。

 アウトリーチ奨学金は、西町の多文化的環境をさらに強め、教育理念である「国際社会の協調と発展、そして平和に貢献できる人間を育てる教育」へと収斂されている。

 引用 西町インターナショナルスクールホームページより
 http://www.nishimachi.ac.jp

講演 阿南・ヴァージニア・史代さん

私は西町を訪れるたびに  その歴史に思いをはせます

阿南さんの講演は西町インターナショナルスクールの歴史と創立者松方種子のお話から始まりました。
 阿南・ヴァージニア・史代さんは、西町の教員、評議員をされ、またテンプル大学の先生としても活躍されています。
 アウトリーチの夕べでは、松方ハウスと松方種子、設立エピソードなどをユーモアを交えながらのスピーチされました。

 なぜなら正門右にある松方ハウスがあるからです。
 100年近くにわたり、松方ハウスは日本のいくたの変化を見守ってきました。

 いわば松方ハウスは、人々がどのように社会や戦後日本を取り巻く環境の変化に対応していったのか、を象徴するといえます。

 人々が大きな社会変動に直面し、新しい環境に適応していった姿がわかるからです。

西町インターナショナルスクールの創立者である松方種子の両方の祖父の時代までさかのぼってみましょう

松方種子の父 松方 正義(第4・6代)内閣総理大臣を務めた。
引用 Wikipedia

 19世紀に両方の祖父は対照的な環境にいました。
 明治維新は日本に新しい秩序をもたらしたからです。

 そして、種子のふたりの祖父は、ともに日本の経済発展のために尽力しました。

 父方の祖父松方正義は大蔵大臣および総理大臣として、母方の祖父 新井領一郎は生糸貿易 に関わり、のちにニューヨークで生糸取引所を設立し、ジャパンソサエティーの創設にもかかわりました。

 対照的に見えるふたりですが、実は共通していたことがあります。
 それは、国際的な教育の必要を感じ、国際教育を子弟に受けさせていたことです。

松方種子の母方の祖父 新井 領一郎 明治初期に日本製生糸の市場開拓のためニューヨークで活躍し、アメリカでジャパンソサエティーを創立し、日本とアメリカの商業・文化の交流に寄与した。

正熊と美代の教育

 松方正義の息子正熊はイェール大学で学び、ニューヨークの生糸取引所の会頭をしていた新井嶺一郎の娘美代と出会います。

 アメリカから帰国した後、ふたりは結婚し、当時有名な外国人建築家に設計を頼み、洋風の新居を建てることにしました。 * 5

 アメリカでのオープンな環境に生活に慣れていた美代は、当時の日本の教育制度に限界を感じ、特に娘たちの教育について心配をしていました。

 アメリカでのオープンな環境に生活に慣れていた美代は、当時の日本の教育制度に限界を感じ、特に娘たちの教育について心配をしていました。 

 美代は、子どもたちが独立心を持ち、一個人として行動すること求めていました。

 そこで、娘たちが日本語と英語で幅広く学ぶことができるように家庭教師を雇うことにしました。

 こうして1920年より前に松方ハウスで松方家の6人の子どもたちが学ぶことになりました。

松方ハウスの前で松方正熊、美代、6人のこどもたち。正熊の手が肩にあるのがハル、中央で人形をもっているのが種子です。

 1923年の関東大震災後、ひとりのアメリカ人の女性が住み込みの家庭教師として雇われることになります。 * 6
 私は、種子先生から「この家庭教師は、子どもたちが外出するたびにいつも付き添ってくれた」と聞いたことがあります。

 私は、種子先生から「彼女は、私たちが外出するたびにいつも付き添ってくれました」と聞いたことがあります。

麻布十番に買い物に行ったときのこと。
とても恥ずかしい思いをしたことがあります。
それは私たちが彼女-外国人の女性と一緒だったからではありません。
実は、彼女お手製の布団の生地で作った洋服を着せられていたからです。

このような経験が種子先生を精神的にタフにしたのかもしれませんね(笑)。

戦争と松方家

 松方家の子どもたちが10代だったころ、アジアでの緊張が高まっていました。
 その後、みなさんがご存知の通り、戦争が起こりました。

 その後、ご存知の通り、戦争が勃発しました。

 戦争は大変な荒廃をもたらしました。
 そのため日本では社会全体、各家庭も引き裂かれたのです。

 (戦争前に)松方家は、大きな決断をします。

 1931年にアメリカの友人たちの助けもあり、子どもたちを現地の寄宿舎に入れ教育を続けさせることができたのです。

 子どもたちにとって、親から長い間、離れることは大変つらいことだったと思います。
 しかし、松方家の子どもたちは、このような状況のおいても適応していきました。

 ところで戦争の間、家族はどのようにして連絡を取り合ったのでしょうか?
 松方家は、母屋である松方ハウスをスウェーデン大使館に貸していました。
 そのため、家族は敷地内の別の建物に住んでいました。

 この母屋に住んでいたスウェーデンの外交官は、にわとりを飼っていました。
 
 しかし、このニワトリは、松方家の菜園ー今の小学校の高学年の建物がある辺りーに毎日のように入り込んでいました。

 種子の母美代はニワトリにはほとほと困っていたようです。
 でも、迷い込んだニワトリが縁で、スウェーデンの大使館経由でアメリカにいる子どもたちと連絡を取ることができたのです。

 この辺りも、ひどい空襲にあいました。
 スウェーデン大使館があったおかげで、松方ハウス、ガレージ、数本の松が被害を免れたのです。

 * 5 松方ハウスは、1921年(大正10年)に創立者 松方種子の両親が建築家ウィリアム・メレル・ボーリズ(1880-1964)に依頼し、自宅として建築した洋館です。
 2000年(平成12年)に東京都歴史的建造物に指定された。

 * 6 フローレンス・ボイントン
 カリフィルニア州ベルベデアの小学校長も勤めました。
 その後、ミス・ボイントンは、当時、府立第一中学校(現日比谷高校)で英語を教えていました。
 1923年(大正13年)に松方家の私塾「松方アカデミー」に迎え入れられました。

復興と西町のスタート

戦争が終わると、家族は少しずつ帰国しました。
 日本は戦争に負け、食べ物が不足していました。

松方家と近所の人々は、空襲にあって空いた土地に再び野菜を植え始めました。

コロンビア大学で図書館学の修士学をとった種子は、17年間のアメリカでの生活を終え、帰国しました。

 帰国した種子の前には、荒廃した町が広がり、彼女は復興のために自分になにができるのか悩みました。

種子は、国会図書館で働き始めましたが、友人や近所の人たちは種子に英語を教えてほしいと考えていました。

日本は占領下のため、近所の人たちは、子どもたちには英語の能力が必要だと感じていたからです。

 近所の人たちは、子どもたちが戦後の社会でやっていけるように、英語と他の科目を教える小さな学校を作るように種子に頼みました。

 くしくも種子が母親とフローレンス・ボイントンから学んだ地で、今度は、種子が新しい世代に向けて、その教育を引き継ぐことになったのです。

 1949年の4月に4人の生徒と種子、ハル、友人によって開校することになったのです。

校舎建設のために

 その後、順調に生徒の数も増え、学校は大きくなっていきました。
 そのため、校舎が必要となってきました。 
 では、どうやって校舎を建てたと思いますか?
 何事にも前向きな松方姉妹は、校舎建設や教材のために必要な資金を集めるために古着を売ることを思いつきました。

 今の東京では考えられないでしょうが、古着を売って、二階建ての校舎を建てることができたのです。
 今からは想像できないですね。
 
 戦後直後は、服ー特に洋服は非常にめずらしかったのです。

 そこで、アメリカの友人の協力を得て、アメリカから大量の古着を送ってもらったのです。
 種子たちは、ジープに乗って郵便局からたくさんの古着を持ち帰りました。   

 当時の日本女性がジープに山ほどの古着を積んで、運転している姿を想像してみてください。
 とてもめずらしい光景だったと思います。

 そして、この古着を買うために、長い行列が麻布十番にできました。  
 
 この古着セールによって最初の校舎が、1951年に完成しました。

西町の由来とカリキュラム

 種子は学校の名前は簡単なものにしようと思っていたので、当時のこの辺りの地名から「西町」にすることに決めました。
 地名から「西町スクール」と名付けましたが、そこには学校以上の意味が含まれていました。
 日本で新しい教育方法を始めるという松方家の女性たちの熱意と決心が西町スクールという名前に込められていたのです。

 初期の西町の教職員たちは、アメリカの教育に関するワークショップに出席しました。
 その後、日本語を必修科目とし、すべて英語で教えるカリキュラムを作り上げることしました。

 日英バイリンガル教育の基礎となるカリキュラムを広岡八恵先生が作りました。
 広岡先生は、信念と情熱をもった先生で生徒たちが「私たち日本人は…」というような視野の狭さをきらいました。

 なぜなら広岡先生は、西町の生徒は「世界市民であるべきだ」という考えのもとで教壇にたっていたからです。

 さらに広岡先生は、夏休みの日本語クラスの他に土曜日の午前に日本語で教えるクラスも開講されました。
 
 初年度の運動会は、近くの中華学校で開催されました。
 運動会がきっかけとなり、設立まもない西町スクールに数人の中国人生徒が入学することになりました。

 その後、1963年には学校のカリキュラムは中学課程まで充実されました。

高度成長期の西町

東京オリンピック 開会式 引用Wikipedia

 1964年の東京オリンピックを境に、日本は徐々に国際に社会戻りました。
 東京オリンピックは、世界中から人々の注目を集め、経済発展の引き金となりました。

 そして、高度成長にともない東京に多くの外国人家族が引っ越してきました。

 さまざまな国の生徒が増えたため、1967年に校名を「西町インターナショナルスクール」と変えることになりました。

 その頃、松方ハウスには、事務室と教室が設けられていました。
 種子が育った時代に食堂だった部屋は5年生の教室となり、寝室は科学室へと変貌をとげていました。

 種子自身も自分が育った松方ハウスがこのように校舎として活用されていることを喜んでいるようでした。

 松方ハウスには、美しい庭園がありました。

 しかし、庭園は、バスケットコートになっていました。(下写真)

 庭園をバスケットコートにしたため、いたるところに凹凸がありました。
 
 しかし、普段からこのコートで練習していた西町のバスケットチームVikingsにとっては、西町で開催される交流試合において凹凸が有利になったことはいうまでもありません(笑)。

ハル・ライシャワーさんの思い出

 私がここで教え始めた時に、一番小さいクラスを受け持っていました。
 そのため、一番小さい教室を与えられましたが、私はそれがとても気に入っていました。
 
 そんなある日のことです。
 種子の姉ハルさんが夫のライシャワー大使と西町を訪ねてきました。
 写真は、授業を見学する(左から)松方種子、ライシャワー、ハル

 私はハルさんに子どもの頃の松方ハウスについて尋ねてみました。

 「ここが私の教室です」とハルさんにいうと、彼女は「そこは当時クローゼットだったのよ」と笑って答えました。

 当時、ガレージや小部屋、台所だったところでも私は教えていたことになります。

 また、松方ハウスをはじめ、松方家が所有していた資産も学校の教育に活用されました。
 群馬県桐生市にある蚕小屋は、1970年代からキャンプ用ロッジとして使われました。 * 7  
 ハルさんは、戦時中、群馬県桐生市にある蔵に疎開していたそうです。

 群馬県桐生市にあった蔵。 ここに戦時中ハルも疎開していました。
 西町インターナショナルスクール 新井領一郎キャンプ
 群馬県桐生市黒保根町鹿角にある西町の校外施設です。
 この新井領一郎キャンプの近くにある黒保根小学校、黒保根中学校と1994年以来姉妹校の提携をしています。

西町の教育に携わり

 私は西町に来た最初に来た日ー1979年の4月29日のことを覚えています。
 それは文化祭「スプリングフェスティバル」の日で、4年生の生徒たちがゲームコーナーが出展していました。

 ゲームコーナーは、自分たちで作り上げ、出展してました。

 生徒たちは、ゲームを楽しむ低学年の子どもたちに遊び方を教えていました。 

 4年生の生徒が責任を持って、ゲームコーナーを運営し、お金を取り扱っていることに驚きました。

 さらに驚いたのは、低学年の生徒たちに対する思いやりのある姿でした。
 国籍を問わず日本語と英語が飛び交う様子にも感心しました。

あるできごと

 私は日本の社会科を教えていましたが、イラン大使の息子が在籍していた8年生のクラスのことを忘れることができません。
 イランで、アメリカ大使館人質事件が起きた時のことです。

 クラスの大勢がアメリカ人の生徒だったのにかかわらず、イラン大使の子どもがいじめや仲間はずれにされることは一度もありませんでした。

 アメリカ人の生徒たちをはじめ、この生徒をーイラン大使の子どもをイラン人としてではなく、自分たち大切な同級生と見ていたのです。

1979年11月にイランのホメイニー革命によって発生した、アメリカ大使館に対する占拠及び人質事件。引用 Wikipedia

創立者 松方種子先生は、このように書かれています。

The changes in Nishimachi School have paralleled in a sense the story of Japan itself.

Japan, from being an isolated island country, then as a defeated country, was forced into reaching out to take responsibility as an individual nation needing to participate actively in building the world of today.

Nishimachi, too, beginning as a small neighborhood school in Japan has also grown and reached out to take on the responsibility of a much wider perspective for our Nishimachi community.

[和訳]
 西町が経験した変化はある意味では日本そのものが経験したものと似ています。

 日本は小さな島国から敗戦国となり、そして今日では、重要な責務を果たすためにより積極的に世界に参加することを求められています。

 西町スクールも同じように町の小さな学校から発展し、西町コミュニティのためにより広い視野で行動しなくてはならなくなったのです。

自主性が切り拓く

 西町に勤務している数年間で、すぐに生徒たちの自主性が大切にされていることがわかりました。
 例えば、学校アルバム「あゆみ」は、教師のアイデアではありませんでした。
 当時の中学生が中心となりー特にブルガリアの生徒ーが中心となって作られたものでした。

 また、ジャーナリズムクラスで学んでいたひとりの日本人生徒が発案し、学校新聞が発行されることになりました。

 私は、評議員として、西町にくるたびに生徒たちの自主性から生まれるいろんな活動にいつも驚かされます。

 60年以上という歳月が過ぎても、西町インターナショナルスクールの設立当時の信念は変わらずに引き継がれているのです。

 松方ハウスを目にするたびに、松方種子先生の思いと困難に直面した時の松方家の強さを思い出します。

 松方種子先生の思い、信念、松方家の強さは、さまざまな形で生徒を育て上げるという学校理念の元となっています。
 すなわち自分で考え、文化の違いを認め、感性を伸ばし、さらに多様な文化を理解するー世界市民となるための経験とツールを提供しているのです。

タイムズの視点

 阿南さんのスピーチから教育者松方種子とその背景が浮かび上がってきます。
 教育者としての信念はもちろん、
 古着フェアを開催し、学校の開設資金にするアイデアと行動力。

 颯爽とジープに乗り込む姿が想像できます。

 そこには、物事を自力で切り拓く彼女の力を感じます。

 また、姉ハルをはじめ、松方家の教育への強い信念。

 母美代の教育が娘種子に受け継がれ、開花します。

 種子が次の世代の教育に力を注ぎながら、松方家が教育のために私財を投じている様子もよくわかります。

 「地球市民」という視野に立ち、戦後日本の多文化教育を切り拓いてきた西町。

 だからこそ、さらに多様性を追い求め、「地球市民」という原点をさらに追い求めていることがわかります。
 西町からさらに西町へ。
 多様性を追い求める西町の姿が浮き彫りにされました。

スピーチ後、阿南さんにお話を伺うことができました。

 西町には、ライシャワー記念室があります。
 現在は、八城メディアセンターと呼ばれており、記念図書室があった場所にライシャワー記念室というミーティングなどが行われる部屋があります。

 体育館は牛場記念体育館と名付けられていることが話題になりました。

 太平洋を挟み、アメリカと日本の外交に尽力されたライシャワー駐日大使と牛場駐米大使。

 ライシャワー氏は駐日大使として1961年から66年まで、牛場氏は1970年から73年ま駐米大使として活躍します。

 じつは、牛場大使は、種子、ハルのいとこにあたります。
 また、プライベートでも仲が良かったそうです。

 太平洋を挟み、活躍したふたりの外交官。
 その名を記念して名付けられた図書室と体育館のある西町。

 今も、太平洋の向こうに人材という平和の橋を架け続けています。

阿南・ヴァージニア・史代さん著書

阿南・ヴァージニア・史代さん著書
 「円仁慈覚大師の足跡を訪ねて 今よみがえる唐代中国の旅」
 武田ランダムハウスジャパン 2007年10月25日刊
 ライシャワー元駐日大使の著作によって世界中に伝えられ『入唐求法巡礼行記』。
 世界的名紀行文のひとつですが、この最後の遣唐使僧・円仁が唐代に歩いた7500kmの行程を阿南さんが25年間の歳月をかけて書かれたのが「円仁慈覚大師の足跡を訪ねて 今よみがえる唐代中国の旅」です。

ルイーザ・ルビィンフィーンさん講演は次のページ

ルイーザ・ルビィンフィーンさん講演は、こちら。

この記事のライター

都内でインターナショナルスクールを運営した経験から現場の目線と記者としての目線で記事を書いています。

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